らんのものおき

翻訳とか、映画の感想とか、日記とか、その他思ったこととか。

吃音と映画とエンパワーメント

吃音って何?

吃音症というのは、言葉が流暢に話せない発話障害のこと。同じ音を繰り返したり(連発)、初めの音が出なかったり(難発)、一つの音を引き伸ばしたり(伸発)してしまう症状がある。100人に1人の割合でいると言われており、幼少時に自然と治る人もいれば、大人になっても治らない人もいる。明確な原因と治療法は解明されておらず、研究もあまり進んでいない。

私には、難発と、言葉を発しようとして身体が無意識に動く随伴という症状がある。私はずっとこの吃音が恥ずかしくて大嫌いだった。

吃音とエンパワーメント

映画を観て自分の今まで恥じていた部分、嫌いだった部分を少しだけ好きになれた。そんな経験がある人は多いと思う。私にも何度もある。『アラジン』のジャスミンを見て白くないから美しくないと思っていた自分の肌を少しだけ好きになれたし、『ゴーストバスターズ』のホルツマンが低い声で吹替えられているのを聞いて自分の低い声を少しだけ好きになれた。

また、LGBTQ映画が増えてきた昨今では、映画にエンパワーされているLGBTQ当事者はとても多いだろう。私もその一人だ。私が初めてレズビアン映画を観たのは中学生の頃。『モンスター』という実在の殺人犯を元にした映画で、連続殺人犯の主人公はその恋人に裏切られ2人は離れ離れになってしまう。実話が元だからそれで全く不満はないけれど。しかし、その映画を観る前から、そして観た後も長い間ずっと、女性同士の恋というのは現実でもフィクションでも幸せな結末を迎えられないんだという感覚があった。それが今ではレズビアンカップル達は幸せにもなるし、結婚もするし、ときには子育てに悩んだり、共に大きな敵と戦って勝利したりもする。物凄い変化である。『お嬢さん』で手を取り合って敵を欺いたあの2人を観たときの感動と言ったら!幼い頃にこんな映画に囲まれていたら、私はもっと早くから自分のレズビアンアイデンティティを誇りに思えていたかもしれない。自分の属性を誇りに思えるというのは素晴らしいことだ。

そんな中で、私にとって一番好きになれない自分の属性、吃音を肯定してくれる映画があることはとても重要だった。中には肯定なんかしないで改善する努力をしろと言う人もいるだろう。しかし、明確な治療法もなく、理解者すらほとんどいない中で、既に自分の一部となってしまった吃音を肯定することで少しでも自己肯定をしようとすることのどこがいけないのだろうか。いけないわけがない!もう一度言おう、自分の属性を誇りに思えるというのは素晴らしいことだ。誇りには思えないまでも、ずっと恥ずかしくて大嫌いだった部分が「まあいいか」くらいに思えたらそれは大きな進歩である。映画にはそういう力があるのだ。

これから話すのは、私に「吃音症である自分」を肯定する手助けをしてくれた映画の話。

英国王のスピーチ

吃音を扱った映画と聞いて真っ先にこの映画が思い浮かぶ人は多いと思う。吃音症に悩むイギリス国王、ジョージ6世言語聴覚士の協力を得て世紀のスピーチに挑む物語である。

私が初めてこれを観たのはまだ自分の症状に吃音という名前があることを知らないとき。初めてこの映画を観てから引っかかっていたものを取り除くようにインターネットの海を彷徨い、ようやく自分が彼と同じ障害を持っていると知るに至った。そして、それを知ったあとの2度目の鑑賞はきっと生涯忘れられない体験だと思う。そこには今まで世界で私だけが悩んでいると思っていたことと全く同じことで苦悩している人の姿があった。この映画はまずオープニングからすごい。あのスピーチの一瞬一瞬の緊張感が吃音者には手に取るように分かるのだ。自分の出かかった小さな声を無駄に反響させるマイク、不審な物を見るような目でこちらを見る観客、静かな空間で自分を急かすように響き渡る動物の鳴き声。その全てが私が昔経験したそのままだった。あまりにもそのまますぎて私は観るのが辛く何度も停止ボタンを押そうと思ったが、それよりも目の前に自分と同じ悩みを持っている人がいることの感動が勝った。仲間がいたのだ。17年間生きてきてようやく仲間を見つけた。その感動と言ったら!ありがとうコリン・ファース! 『アナと雪の女王2』でエルサがShow Yourselfを歌ったときと同じような気持ちである。あの曲は本当に素晴らしいね。何かしらのマイノリティ性を持つ人なら誰もが分かるであろうあの初めて仲間を見つけたときの感動の歌。やっと見つけた!

サウスパーク

これは映画じゃないけれど、ご存知アメリカの過激で下品な風刺アニメ『サウスパーク』。この登場人物に吃音症と筋ジストロフィーという病気を持つ少年ジミーがいる。性格はロクな奴じゃないんだけど。しかし実は吃音症である私を初めて「エンパワー」してくれたのはこのジミーなのだ。

英国王のスピーチ』は私にとって初めて自分と同じ仲間の存在を知らせてくれた映画で、それを抜きにしても素晴らしい作品だ。しかし、ハンデを持った人間が努力して目標を達成するという話であることに変わりはない。私も努力はしているけれど、果たしてこの先上手く生きていけるんだろうか。努力しても失敗したらやはり私は無価値なんじゃなかろうか。そんな風に考えてしまうこともあった私にとって、目標を達成する吃音者の感動物語はプレッシャーになることもあった。でもサウスパークでは障害者が頑張ったからといって決して感動物語にはならない。障害者も健常者と同じく酷い目に遭うこともあるし嫌な奴なこともある。全くもって優しい世界ではないけれどある意味平等で、それが私には嬉しかった。特別扱いされずに皆んなと同じように過ごし、学校のコメディアンとして舞台にも立つジミー。性格は良くないけど、彼は私に「皆んなと同じように扱われて良いし、皆んなと同じことに挑戦して良い」と教えてくれた初めてのキャラクターだ。もう変な目で見られたり、馬鹿にされたりすることにはうんざりだった。私は、吃音症である自分のままで周りと同じように扱われたいとやっと思いはじめていた。

『IT/イット”それ”が見えたら、終わり。』

ペニーワイズでお馴染みのホラー映画。私はホラー映画に疎いからオリジナル版を観ていなくて、このリメイク版も初めて観たのは去年くらいなんだけど。私は子供の頃の自分にこれを観せたい。ここで登場する吃音症の少年ビルは主人公であり「ルーザーズ」のリーダー的存在。吃音症の子がリーダーとは!私はずっと自分の話し方で周りの人に迷惑をかけてはいけないとばかり考えていたから、この描写は本当に衝撃というか、嬉しかった。吃音症の子がリーダーとなって殺人ピエロに立ち向かっていくんだよ。なんたるエンパワーメント!  

上手く話せなくても仲良しグループのリーダー的存在になっても良いんだよと、仲間内で存在感を消さなくても良いんだよと、こんな簡単なことを学ぶのに私はなんと時間をかけてしまったことか。あぁもったいない!それに、一生懸命喋ってるビルはなんだか可愛いじゃないか。全然恥じることじゃないよ。そういうことを私はもっと早くに知りたかった。できればビルと同じかそれより小さい年齢のときに知りたかった。ちなみに私の推しはリッチーである。

ハイスクール・ミュージカル

観た人なら分かると思うけど、この映画は吃音とは全く関係ない。1ミリも関係ない。これは、幼い頃に好きだったアメリカの高校を舞台にしたミュージカル映画

私はミュージカルの世界にかなり憧れている。なんなら住みたい。ミュージカルの世界に住みたい。私がこの映画の世界に没頭していたのは、吃音という言葉を知るずっと前だが、それでも無関係とは言えない作品だ。なぜかと言うと、ほとんどの吃音症の人は歌を歌うときにはつっかえずに声が出るのだ。それなら、歌で会話をするミュージカルなら私は他の人と何の違いもなく話ができるわけ。言いたいことを声が出ないからと我慢する必要もない。苦手な面接だって歌にのせて志望動機が言えたらきっと上手くいくだろう。これは夢のようだ!エンパワーメントとは少し違うかもしれないけれど、こんな風に現実を忘れて理想の世界に簡単に行ける映画ジャンルがあるのは、それはそれで素晴らしいことだと思う。

ジーザス・クライスト・スーパースター

ミュージカルの話はさっきしたじゃないかって? 違うんだ、これはロックオペラなんだ。イエス・キリストの最後の7日間を描いたロックオペラである。

ミュージカルと言っても全ての会話が歌なわけじゃない。友達とミュージカルカラオケをすると、私はいつも台詞のところで声が出なくなってしまう。「じゃあ8時ごろ迎えに行こうか?」が言えないわけだ。ミュージカルの世界でも上手く生きていけるわけじゃない。とても悲しい。だけど『ジーザス・クライスト・スーパースター』は良いぞ。最初から最後まで台詞が全部歌だ。これなら私も救世主にだって裏切者にだって王にだってなれる。何にでもなれるね!素晴らしい!私は叶うなら、ロックオペラの世界で生きていきたい。なぜロックかと言うとそれは単純にロックの方が好きだからだ。「夢が叶うなら〜皆んなのように〜話したい〜♪」と私はいつも塔の上から街を見下ろすカジモドのように考えているけれど、世界がロックオペラになればその夢はいとも簡単に叶う。たまにはこんな風に現実逃避したって良いじゃないか。ロックオペラ万歳! 

ちなみにこの『ジーザス・クライスト・スーパースター』は色々なバージョンがあるけれど、私のイチオシは2012年のUKアリーナ版。現代風な演出がとてもかっこいい!

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

さっきまで散々現実逃避して急にド直球の吃音を扱った映画の話をするけれど、これは昔の自分を見ているような気持ちになる映画。エンパワーは全くされていない、むしろ私がこの主人公・志乃ちゃんをエンパワーしたいくらいだ。私も吃音を扱った映画を観てエンパワーする側になりたいと思える時がくるとは随分と時間が経ったものである。  志乃ちゃんは自分の吃音を恥じて、周りに迷惑をかけるのを申し訳なく思い、人と積極的に関わることが苦手な高校生。そんな彼女が友人と音楽との出会いを通して徐々に心を開き自分自身と向き合っていく。彼女が最後に行き着く結論はとても素晴らしい。抱きしめてあげたい。だけどちょっと待て、私はこの映画で説教したい登場人物が今思い浮かぶだけでも3人はいるぞ!その人達への批判なしに志乃ちゃんだけに精神的成長を求めるところが私はなんとも納得いかないのだ。他人を責めずにちゃんと自分と向き合った志乃ちゃんは本当に偉いよ、だけどあなたを傷つけてきた他の人達は反省してないどころか傷つけたことにすら気づいていないじゃないか。 

私が最後の最後にこんなことを書いてるのは、何もこの映画の悪口が言いたいからじゃない。今こう思えるのは、ずっと志乃ちゃんみたいに自分だけを責めてきた私がやっと他人に対して、ひいては社会に対して批判的な目を向けられるようになったということ。これも大きな成長なのだ。この映画が好きな人ごめんね。

おわりに

他にも映画に限定しないなら三島由紀夫の『金閣寺』とかも語りたかったけれど、今回は我慢してまとめのお話。私が今、自分の吃音を好きにはなれなくても「まあいいか」くらいに思えているのは、こういう素晴らしい作品達のおかげである。

最近よく話題に挙がる「レプリゼンテーション」という言葉。このレプリゼンテーションって一体何のためにあるのかを考えてみてほしい。もちろん正解は一つではないけれど、私は、より多くの人達をエンパワーして良い人生を歩む手助けをするためじゃないかと思う。今より表現に多様性がない時代、映画からエンパワーしてもらえるのはほとんどの場合、白人、健常者、異性愛者と言ったマジョリティの人達だけであった。私は非白人で障害者で同性愛者で、何よりも映画が大好きだ。だから、映画をそんな風に一部の人達だけのものにしておくのはあまりにもったいないと思う。

レプリゼンテーションが大事って言われるのをポリコレでつまらなくなるなんて思ってる人もいるけれど、レプリゼンテーションって本当に大事。映画はただの娯楽だけじゃない、現実の人の人生をより良くする力を持っているのだから。