らんのものおき

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『フィアー・ストリート』感想

※この感想には『オズの魔法使』『ウィキッド』『フィアー・ストリート』のネタバレが存分に含まれています。未見の方はご注意を。

 

 Netflixで配信中の『フィアー・ストリート』3部作。数世紀にわたり殺人事件が続く呪われた街・シェイディサイドを舞台に、主人公の高校生達が魔女サラ・フィアーの謎を解いていくホラー映画である。

 この映画、主人公がレズビアンカップルであり、それだけでもホラー映画というジャンルでは新しいのだが、さらに凄いのはクィア文脈における「魔女」という存在をこれほど誠実にかつエンタメ的に描いた作品はないということだ。

 

 ちょっと長くなるけれど、まずは「魔女」とクィアの関係について少し遡った話をしよう。

 1939年、ゲイ・アイコンとしても有名なジュディ・ガーランドの主演で『オズの魔法使』が映画化された。主題歌”Over the Rainbow(虹の彼方に)”は歴史上最も重要なゲイ・アンセムと言っても過言ではない(ゲイ・アンセムとは、その内容がLGBTQ当事者の持つ心境と親和性が高いためにLGBTQ賛歌として当事者間で好まれる曲のことである)。虹の彼方にきっとあるどこか素晴らしい場所をセクシュアルマイノリティが自由に生きられる場所に擬え、何十年もの間親しまれてきた。レインボーフラッグがこの”Over the Rainbow”に着想を得て作られたという説もある。

 しかし、『オズの魔法使』の物語そのものを観てみると、マイノリティに優しいものとは言い難いところがある。有名な台詞の”There’s no place like home(おうちが一番)”だって、当時はそのhomeからジェンダーセクシュアリティを理由に追い出されたり蔑まれたりした人が沢山いた時代である。そして、本作の悪役である西の悪い魔女は見かけにも明らかに普通の人間とは違う異質な者として描写され、主人公サイドの敵となった。

 そんななか、この『オズの魔法使』を取り巻く諸々に大きな変化をもたらしたのが2003年、ミュージカルの『ウィキッド』である。悪役だった西の悪い魔女「エルファバ」をその肌の色と魔力ゆえのマイノリティ性を持つキャラクターにし、彼女が周りの圧力に逆らい自分の力を発揮する姿は多くの人に感動を与えた。劇中歌”Defying Gravity(自由を求めて)”もまた有名なゲイ・アンセムの一つである。”Over the Rainbow”と比べてみるとその内容の違いからセクシュアルマイノリティを取り巻く状況の変化が垣間見れるだろう。目には見えないけれどきっとどこかにある自由に生きられる場所を夢見る歌から、誰になんと言われても自分のありのままの姿で自由に生きることの歌へ変わったのである。

※ゲイ・アンセムについてはこちらのWikipediaがシンプルにまとまっていて分かりやすいので興味があればご一読を。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%A0


 『ウィキッド』では物語の終盤、エルファバは西の悪い魔女として死んだこととなり、自分の無実をオズの国の人々に証明することがないまま、どこか遠い土地へと旅立って行く。そう、エルファバは自由に生きる道を見つけたものの、表向きには悪者として多数の人に記憶される運命なのだ。

 

 これに一つの終止符を打ったのがこの『フィアー・ストリート』シリーズである。

 『オズの魔法使』『ウィキッド』ではあくまで観客側がセクシュアルマイノリティを取り巻く現実と重ねて観ただけで、物語内にそれを示唆するものはなかった。エルファバもおそらく異性愛者だし。一方『フィアー・ストリート』では、主人公となるレズビアンの女の子がガールフレンドと共に魔女の呪いに立ち向かっていく。

 だがちょっと待てと。魔女をそんな安易に悪役にして良いのか?昔から魔女として魔女裁判にかけられた人の中には、同性愛を理由に魔女と疑われ殺された者もいたと言うではないか。西の悪い魔女とセクシュアルマイノリティを取り巻く諸々はそんなところからも繋がっているのを忘れてはならないぞ。私達も時代が違えば魔女だったのだ。首を括られ、または水をかけられ殺されていたかもしれないのだ。それに立ち向かうのがレズビアンの主人公って、大丈夫なのか?と思ったのも束の間。全ての予感を良い意味で裏切ってくれた。そう、これはエルファバの無罪を証明する話なのだ。1作目の序盤で『オズの魔法使』の西の悪い魔女の仮装をした生徒が登場するのも、制作陣の意図に違いない。

 時代が違えば殺され、後世まで悪者として語り継がれたかもしれない私達、その無罪を晴らすのは他でもなく私達自身なのだと、この映画は語りかけてくる。ここでpart3の魔女サラ・フィアーを主人公ディーナが演じる構成が効いてくるのだ。彼女も私達と同じ、異質な存在だった。その怒りに触れることができるのも、虐げられた歴史に終止符を打てるのも、今を生きる私達だ。これはもう「ホラー映画でレズビアンの子が主人公なのが良いねえ」とかいうレベルではない、今までの歴史への壮大なリベンジ映画である。

 また『ウィキッド』ではどこか別の場所で自由に生きることとなったエルファバも、本来ならそんな負担は負わなくてよい筈だった。どうして虐げられた側が出ていかなくてはならないのか。『フィアー・ストリート』では、ディーナが魔女の呪いの真実を見つけサラ・フィアーの無念を晴らし、その場所でガールフレンドとキスするシーンでエンディングとなる。私達が自由に生きられる場所は「ここではないどこか」ではなく、ここなのだ。ここで自由に生きられるようになるまで、私達の闘いは続いていく。There’s no place like homeと心から言える日がくるまで。